小沢平裏燧線 【藪径・雪径】

 只見川から尾瀬へ登り上げる道は正式には「小沢平裏燧線」と呼ばれ、小沢平(コゾウダイラ)と兎田代を結ぶ新潟県管理の国立公園内の歩道である。ここでは兎田代から三条ノ滝を通り温泉小屋のある赤田代までの区間を対象として記す。新潟からの尾瀬への登山道として長く使われてきたが、平成26年(2014)を最後に渋沢温泉小屋や渋沢(シボサワ)~天神田代の道が閉鎖され、近年は深沢(高石沢)、渋沢の橋も流されたまま補修されず渡渉を要するようになった。令和7年(2025)現在、目印のピンクテープと、トクサ沢の橋、深沢の渡渉用ロープ、一部区間の草刈が行われる程度で、ヤブや倒木は多くがそのままである。小屋の閉鎖後、通行者が著しく減少したと見られ、登山地図、尾瀬の公式案内図、地形図等に収載されているが、道の状態は東京近郊の良い目の廃道と同じくらい悪く不明瞭である。通行者が東京近郊のバリエーションルートと同程度しかいないということなのだろう。福島県内の道だが実質的に新潟側の入口として新潟県が管理を担当することが、令和3年の環境省中央環境審議会自然環境部会自然公園等小委員会で決定された。書類上では「解説標識の設置や橋の設置、登山道修繕等の適切な登山道管理を行う」とされるが、現状は程遠い。今後のこの道の命運は、今後の新潟県および実質的な整備を担当する尾瀬ルート活性化委員会のテコ入れ次第だろう。

 

 元々猟師や山菜、魚採りなど地元民の狩猟の場でしかなかった只見川上流部は、江戸時代に銀山開発で一時の賑を見せた。だが鉱脈も次第に尽き採掘が末期を迎えた頃から、それに替わって次第に入植者が入り始めた[1]。天保3年(1832)に始まった新田開発は寒冷地のため失敗に終わるも、宇津野の村民が夏場だけの出作り小屋を北ノ又川沿いに作り始めた[2]。明治43年(1910)に本格的な入植が始まり、現在は湖底となった村杉、清水、須原口、波拝の辺りが、昭和初期にはある程度の賑を見せた。その一番奥にあたるのが唯一水没を免れた鷹ノ巣集落であって、これらの村は新潟側からの入植であったため只見川左岸に作られていた。一方福島側の只見川右岸の開発は遅く、支流の大津岐川や片貝沢付近に大正時代の入植があったが、新潟側の村より上流寄りが多い駄尾沢(ダオゾウ)、赤岩平、砂郷平、小沢平への入植は第二次大戦後のことである[2,3]。

 まだ小沢平など福島側の開拓集落がなかった昭和初期、尾瀬ヶ原にダムを建設する計画が進められていた。既に明治時代から発案されていたものであるが、電力需要の高まりとともに具体的な計画として検討され、東京電灯(現・東京電力)による調査や測量が始まったのがこの時期である。尾瀬ヶ原をダム湖とし、只見川に落とす案とトンネルで楢俣川に落とす案との双方が検討された。その調査のために付けられたのが小沢平裏燧線の元となった道である。詳細な地形調査を行うため道は川に沿う必要があり、歩きやすさは二の次で、峻険な部分を高捲く他は執拗に川の近くを通っている。そのため途中の沢を渡る時は急降下しては登り返し、渋沢先の台地取り付く部分では九十九折れもせず直登し、せっかく登った高度を三条ノ滝付近で140mも無駄に下っている。この区間を地元狩猟・漁労者以外で初めて通行した記録は、大正9年の仙台逓信局水力課による調査時のものである。将来の電力需要を見越し民間の電力会社のダム計画の助けとなるよう、地元案内人のほか元陸軍工兵隊員を加えた本格的な探検隊を組織し、尾瀬ヶ原から道なき道を只見川に沿って鷹ノ巣まで下った[4]。その情報もあってか、東京電灯は昭和9年に小沢平~尾瀬ヶ原の作業歩道を開通させ、ダムの具体的な設計を開始した[4,5]。当時檜枝岐と銀山平の交通は大津岐峠越だったので、只見川の鷹ノ巣から奥は猟師が通る程度の人跡疎らな地であった。そこに通したこのダム調査用の歩道は、銀山平への車道すらなかった時代に東京電灯の関係者以外の通行者は殆どなかったであろう。いち早く着目した登山家の中村謙が、銀山平から尾瀬への入口として昭和10年刊行の書籍に掲載したことで世に知られるようになった[5]。尾瀬の開発が現実味を帯びてきたこの頃、山口営林署もまた尾瀬へ通ずる橅平支線(御池の東に広がる橅平から兎田代までの道のことで、現在の尾瀬ヶ原三条の滝線、通称裏燧林道にほぼ相当)を拓き、兎田代で東京電灯の調査歩道に繋いだ。さらに温泉小屋の星段吉により昭和十二年に拓かれた段吉新道と呼ばれる短絡路が[8]、兎田代のすぐ上で営林署の道から分岐して温泉小屋に直接繋ぎ、橅平経由の登山者を誘導した。こうして便利になった北面からの尾瀬の入山者の増加に連れ、最も不便な小沢平の道も利用者が増えていったと見られる。昭和32年、渋沢の右岸に温泉付きの山小屋が開業した。昭和35年に銀山湖の湛水が開始されると、入り組んだ湖岸の付替道路を歩くことも出来たがあまりに距離が長いため、同年中に渡船が導入された[6,7]。小出から銀山湖までダム開発用の道路を通る路線バスが運行され、渡船に乗り継げば、ダムができる以前より便利な尾瀬へのルートになった。だが効率重視が強まった近年、安・近・短の鳩待峠、三平峠、沼山峠に人が流れるようになった。平成2年(1990)頃、銀山湖から御池までのバス路線の運行が始まり、最近は沼山峠まで延伸されたことで、奥只見から来ても御池や沼山峠から入山するようになった。平成26年(2014)の営業を最後に渋沢温泉小屋が閉鎖されると、小沢平の道は通る人も稀になった。

●小沢平~渋沢温泉小屋跡

 第二次大戦後、道もなかった山中に切り開かれた開拓集落の小沢平は、昭和46年に檜枝岐本村からの車道が開通すると住民は本村に引き上げ、しばらくは出作りが行われていたが、現在は廃村どころか人影もない原野に返っていた。かつてバス停前にあった尾瀬口山荘は長らく閉業したあと、十年ほど前に解体されたという。駐車場脇の看板で道の入口はすぐ分かった。だが今思えば、これが最初で最後の案内板であった。美しい緑一色を下るとすぐトクサ沢の吊橋を渡った。仮設橋のような作りだが、実際流失を避けるため夏~秋の間だけ掛けては外しておくのだという。道はわざわざ十数米を登って只見川の崖を高捲いたあと、すぐ下り返して深沢(地形図では高石沢)を渡る。普通の道では見られぬほど、高巻き部分を急登急下するのは元々が作業道だったからだろうか。飛び石はバランス感覚とヌメリ対応を要するので、普通に渡渉した方が良いかも知れない。筆者は飛び石を試みヌメリのため片足を踝まで水に落とした。ロープが渡しているので多少の増水でも安心だ。

 只見川沿いは増水すると大変危険と思われ、道は右岸の数十米上の安全な山腹に付けられていた。新緑のブナが目に優しく染み渡った。火山性の地形は複雑で、二万五千分の一地形図で全く分からない右岸支窪に沿って暫く登り続けた。一〇七四米まで登って支尾根を乗越し、只見川へと数十米分を下った。水場にちょうど利用できそうな二、三の小窪を見ながら山腹を水平に進むが、道は不明瞭で、まだ歩くには歩ける廃道といった趣である。そういった廃道好きのマニアがつけたがよろしくピンクテープが所々に見られるのは、尾瀬の関係者が遭難防止に毎年整備しているものと思われ頼りになり有り難い。なくても歩けるが、都度の道探しや道確認の時間が節約できる。

 久しぶりに只見川が見える高さまで下って渡るのが渋沢で、温泉で水が白く濁っているのですぐ分かる。渋沢は天然の石の配置がたまたま良く、飛び石で楽に渡れた。渋沢温泉小屋跡へは高さ約四十米分を登り返すが、今渡った沢沿いの小屋へ行くのにこれほど登るのは変かと心配になるほどだ。突然道標のない分岐が現れ、左に迷い込み防止のトラロープが張られていた。ここで左に入るのが、渋沢温泉小屋跡を経て裏燧林道の天神田代に登る道である。現在正規登山道としては閉鎖されている。

 現在地の確認と天神田代道の状況確認のため少し覗いてみると、小崩壊の先に小屋跡の更地があり、さらに天神田代道を進むと、伸びた灌木の枝と不明瞭な踏跡の先に露天風呂跡があり、泉温が低いためオタマジャクシが泳いでいた。もう少し行くとチョロチョロと湧き出す赤茶けた源泉があったが、熱いというより常温に近かった。加温して温泉に使っていたのだろう。営業していた頃も露天風呂は夏しか入れなかったときく。天神田代道はここで橋を渡り対岸の窪に取り付いていたと言うが、当然橋は失われていてその先の道の状態は確認していない。

 

⌚ฺ  小沢平-(1時間5分)-渋沢-(5分)-渋沢温泉小屋跡分岐 [2025.6.29]

 

●渋沢温泉小屋跡~赤田代温泉小屋

 渋沢温泉小屋跡分岐から道は只見川を離れて一つの支尾根に取り付き登り始めた。この先、只見川は高さ約二五〇米の崖の下を流れているので、崖上の台地まで這い上がるのである。支尾根が山腹に吸い込まれて消えるあたり、右手の笹ヤブの中に頼りなくピンクテープが下がり、一方踏跡は左の窪状を登っていた。正規道の笹ヤブを嫌って試しに見た目に道のように見える左の窪状の踏跡を辿ってみると、次第にぼんやりしてきたが酷いヤブもなく、最後は急斜面になったが強引に這い上がった。一二六〇米付近で崖上台地に乗り、地形図に表されない二重山稜を越えて只見川側に出ると、一二七〇米で右から来る立派な正規道に出合った。台地上の道はブナ林のプロムナードだが、正規道を来ても直前の急登は免れないと聞く。元が只見川の調査用歩道なので歩きやすい九十九折れなど毛頭考えていないようだ。

 崖に沿ってゆっくり高度を上げた。これといった目立った特徴はない美しいブナの森が続いた。突然新しい標柱を見れば、御池からの一般登山道との分岐であった。尾瀬へ近道するならここから御池方面にほんの僅か登り返し、段吉新道で尾瀬ヶ原の温泉小屋に出るのが早い。尾瀬国立公園の歩道小沢平裏燧線としてはここで終了するが、引き続き尾瀬ヶ原まで電源開発の道を辿っていく。この先は三条ノ滝経由の歩道として一般登山者が多数通行する整備された道である。

 緩く下ってすぐに小さな兎田代を通過、道は次第に傾斜を増し、最後は崖のような急な下りが高度一〇〇米分も続いた。三条ノ滝近くで水平道に出合うと、尾瀬ヶ原へは左に向かうが、三条ノ滝の滝見台まで十分弱の下りなので往復してきた。国内でも登山道で行ける範囲でこれだけの水量と落差を持つのは有数の規模であろう。その点ではダム建設が計画されたのもよく分かる。次第に高度を詰めてくる只見川を時々覗き込みながら、幾分穏やかになった斜面をトラバースしたり登ったりして平滑ノ滝展望台を通過した。川の眺めは素晴らしいが滝を見るには位置が悪い。道がいよいよ平坦になると尾瀬ヶ原の一角で、左から裏燧林道を合わせると、すぐに赤田代の元湯山荘が現れた。ここも令和元年(2019)をもって閉館となった(公式には「閉館」と言わず「休業」と言うのがいかにも東電らしい)。その数十米先、尾瀬ヶ原に初めて足を踏み入れた地点に立つのが赤田代温泉の温泉小屋である。ここまで来ればもう観光客の領域で、小屋には洒落たカフェが設置されていた。

 

⌚ฺ  塩那道路1020M峠状 - (1時間5分)-御池分岐- (15分)-三条ノ滝分岐- (35分)-赤田代温泉小屋 [2025.6.29]

 

 

 

250629_p01.jpg
クマ看板が出迎える小沢平口
250629_p02.jpg
木賊沢の仮設橋
250629_p03.jpg
深沢(高石沢)はロープだけ
250629_p04.jpg
たびたび急な昇降がある
250629_p05.jpg
前半は荒廃気味の道
250629_p06.jpg
渋沢渡渉点
250629_p07.jpg
倒木は未処理のまま放置が多い
250629_p08.jpg
細いロープだけが目印の渋沢小屋跡分岐
250629_p09.jpg
渋沢温泉小屋跡
250629_p10.jpg
オタマジャクシが入浴中の露天風呂跡
250629_p11.jpg
低温の源泉
250629_p12.jpg
要所にピンクテープが見られた
250629_p13.jpg
何を指すか不明な私設看板
250629_p14.jpg
御池分岐でコース中初めて見る道標
250629_p15.jpg
小さな兎田代の木道
250629_p16.jpg
寄り道して眺める三条ノ滝の壮観
250629_p17.jpg
カフェを併設した赤田代の温泉小屋

[1]「佐梨川・只見川 川ガイド」編集会議・新潟県魚沼地域振興局・㈱エコロジーサイエンス『佐梨川・只見川 川ガイド』、平成二十一年、新潟県魚沼地域振興局地域整備部「奥只見 原生林が辿った歴史」八五~九二頁。
[2]山崎久雄ほか監修『新潟県の地理散歩 中越編』野島出版、昭和五十六年、山崎久雄「小出町と奥只見」一四三~一五〇頁 。

[3]桧枝岐村『桧枝岐村史』桧枝岐村、昭和五十六年、「第五章 産業の発達と電源開発 第四節 電源開発と新しい村づくり」二六三~二八二頁 。

[4]菊池英彦「只見川上流の踏査」(『水利と土木』七巻九号、五五~六五頁)、昭和九年 。

[5]中村謙『上越の山と渓』朋文堂、昭和十年、「銀山平から尾瀬へ」二七八~二八一頁 。

[6]川崎隆章『美しき尾瀬の旅』山と渓谷社、昭和三十六年、「⑤銀山平より尾瀬へ」一七三~一七六頁。

[7]小森恵己子「尾瀬ヶ原11コース <概況とコース・タイム> 」(『山と高原』二九七号、二三~二五頁)、昭和三十六年 。

[8]尾瀬保護財団「段吉新道」https://oze-fnd.or.jp/oza/nature/p141/